top of page

守山キリスト福音教会礼拝                  2020年3月29日上田勇矢牧師

「現代のイスラエルから見る聖書⑥―カペナウム、ガリラヤ湖―」

 

おはようございます。そしてシャローム、主の平安があなたにありますように。

コロナウィルスの影響が全世界で拡大していて、大小関係なく、すべての教会が共に集まっての礼拝ができない国が増えています。東京や神奈川も、そして岐阜にある教会も外出自粛要請に応じて、インターネットでのオンライン礼拝に切り替えている教会が多数あります。私たちもいつそのような事態になるかわからない中にいることを意識しながら、今日もともに集まることが許されていることを感謝します。と同時に、皆さんの中にも体調に不安を感じる方や、70歳を超える若いご年配の方もおられます。互いに対する愛を、最大限の対応をしながら表せる教会として進ませていただきたいと願います。

今、世界に蔓延しているものは何でしょうか?それはコロナというよりも、「恐れ」です。感染するのではないか?物がなくなるのではないか?これからどうなるのだろうか?

恐れが支配すると、人は隣人を愛するのではなく拒絶し、人との交流を避けることばかりを考えて、自己中心に陥るでしょう。

でも、今こそ私たちが心にとどめるべきことは主の御言葉です。

2テモテ1:7「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」 ヘブル 10:39 「しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」

新型コロナの拡大がいつ終わるかはわかりません。しかし、はっきり言えることは、最終的には、主はコロナやどんな問題よりもはるかに大きな方であるという事実です。困難な状況下で私たちは目の前の状況やニュースを見続けて恐れることを止めて、イエス様に目を向けなおして生きてください。また、人々の目がイエス様に向けられるように祈り、仕えることができるでしょうか。(祈り)

 

<現代のイスラエルから見る聖書⑥>

こんな中ですが、今日もイスラエルの旅から御心を聴きます。前回の、ピリポ・カイザリアからバスで1時間半ほど南下します(地図2枚)ガリラヤ湖の北の方、琵琶湖でいう今津やマキノというところのイメージです。荒野とは全く異なって、草原が広がっていました。同じ一つの国とは思えないほど景色が変わりました。

カペナウムは、現在は遺跡となった街で、誰も住んでいません。2000年前の会堂の跡が残っています。それは、イエス様が何度も出入りされたユダヤ人の会堂です。その会堂には切るとハートに見える柱があります。これは角ばった面が「正義」、丸まった面は「憐れみ」を表します。神の裁きは、「正しい」だけでなく「憐れみ」でもあるということを象徴します。

すぐ前には住居跡が発掘されていて、その向こうに、宇宙船のような建物が見えます。それは教会で、その建物が守るようにして、真下にあるのがペテロの家だといわれる遺跡です。ユダヤ人の会堂からすぐのところにあり、ガリラヤ湖からもすぐの場所です。この家を舞台にして多くの出来事が起こりました。

マタイ4:13「そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。」イエス様の故郷ナザレの人々は、約30年間イエスを知っているがゆえに、「大工のせがれがメシアなはずがない!」と拒絶したので、イエスさまは住まいをカペナウムに移しました。おそらく、ペテロの家に滞在したと思われています。

マタイ4:14-16 「14 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。15 「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。16 闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」単に有名になりたいとか、大きなことをしたい!という人なら、日本なら東京へ行くでしょう。イスラエルではエルサレムの都を目指したはずです。しかし、イエス様は田舎町の滋賀県のようなガリラヤを拠点にして神の国の働きを始めました。

旧約聖書ですでに預言されていたことを成し遂げるためです。イザヤ9:1-2の言葉が引用されていますが、ゼブルンとナフタリというのは、かつてアッシリア帝国に攻撃され、捕虜にされて連れ去られ、代わりにユダヤ人ではない異邦人が住むようになったため、後々に、ユダヤ人と異邦人が混ざり合う地域になりました。純粋なユダヤ人ではないために、軽蔑の目で見られていた地域でした。そのような闇を感じる中に、大きな光であるメシア(キリスト)が来られたのです。イエス様のメッセージは何だったでしょうか?

マタイ4:17「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」

何を悔い改めるべきでしょうか?

彼らは天地の創り主を知っていましたし、ユダヤ人は選ばれた民であるという自覚がありました。しかし、彼らは肝心の創造主(神)から心が離れてしまっていたのです。主を信頼して生きるという生活を後ろに回していました。仕事が忙しく、お金を追い求め、目に見える幸せを願っていた。または宗教熱心になって、本来の神様の思いからかけ離れて、人を愛さず、自分中心に生きていたのです。

イエス様はそんな彼らに言われました。「神を信じ、わたしを信じなさい」

形だけ信仰熱心に見せるのではなく、中身はどうなのか!?という強い問いかけです。

・・・実は、今、世界中がコロナウィルスの脅威の中で同じことを問われているのではないでしょうか?あなたは誰を見て、誰を気にして、何のために生きていますか!?と。

 

カペナウムで、初めの弟子たちが呼び出されました。ペテロと呼ばれるシモンと、その兄弟アンデレです。漁師の彼らにイエス様が言われました。マタイ4:19「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らは即座に従いました。

イエス様は、カペナウムを中心として、地域を回り歩いて、会堂で旧約聖書の約束の本当の意味を教えました。福音、悔い改めて、主に従うなら永遠の命を得るという良い知らせを宣べ伝えました。しかも、病の人々を次々に癒されました。この4つはイエス様がされたことであり、2020年の教会にも託された働きです。

カペナウムでは、100人部隊の隊長のしもべを癒されました。(マタイ8:5)

また、ペテロの姑が熱を出して寝込んでいた時、主が彼女に触れるとすぐに熱が下がり、彼女はイエス様をもてなし始めました。(マタイ8:14-15)

イエス様が癒しをなさるとき、それは預言の成就でした。

マタイ8:17「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」主がなされる癒しは、主が十字架でその人の病気を身代わりになって背負ったために起こります。

カペナウムでは、悪霊からの解放もされました。マルコ1:23-26(25-26節)「イエスは彼を叱って、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。すると、汚れた霊はその人を引きつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。」イエス様には天と地のすべての権威が与えられています。アーメン!私たちがイエス様の名前を宣言して祈る時、それは天の王座の権威を用いるということになります。

マタイ9:1-8には、4人の友人に連れられた中風を患った友達の癒しが記録されています。中風とは、今でいう脳卒中のようなもので、後遺障害として体が麻痺したりします。彼はそういう状態でした。4人の友人は入り口から入れなかったために、屋根の上に登って簡素なつくりの上にヤシの葉で覆われた屋根をはぎ取って、友人を下におろしました。おそらくペテロの家だったと思われます。

イエス様は中風で体が動かせない彼を見て憐れみ、罪の赦しを宣言して、体を癒されました。病だけでなくその人の、あなたや私の罪をも背負って十字架にかかられたからこそ、イエス様は赦しを与えることができるのです。1ペテロ2:24 「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」主イエスの十字架のゆえに、私たちには希望があるのです。

 

<ガリラヤ湖>

イスラエル旅行をするとほぼ必ず食べる料理があります。それがSaint Peter’s fish(聖ペテロの魚)です。準備よく醤油を持参された方があり、淡白な魚をさらにおいしくいただきました。

その後、舟に乗ってガリラヤ湖を遊覧しました。

ガリラヤ湖での出来事の一つはマタイ8:23-27です。「24 すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。25 弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。26 イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。27 人々は驚いて言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」

この時、明らかになったことは、問題が風や大波ではなく、弟子たちの小さな信仰であったということです。大嵐にぶち当たった時に彼らはイエス様が共に居ることの意味を見失っていました。大嵐がそれを明らかにしたのです。

今、世界中で広がるコロナ感染症によって明らかにされたことは、「恐れ」がもたらす影響です。全力で対応することはどうしても必要です。しかし、どう対応するか以上に大切なことがあります。

①神はどんな嵐をも超える力を持っていることを信頼すること。

②嵐や問題の大きさよりも、嵐を鎮めることのできるお方に目を向けること。

③イエス様が、あなたの舟に共に乗っているインマヌエルである方だということ。

 

最後に一つの動画を見てください。「Be the Church」(Onfire Japan提供)

 

私たちは、信仰があるからといって何もしないで楽観視するべきではありません。

感染しないようにできる限りの努力をしつつも、かつ恐れに支配されないのです。

 

聖書の中に「恐れてはならない」という言葉が何回出てくるか数えた人がいます。

答えは365回でした。これを発見した彼は「そうだ!主が1年毎日恐れるな」と言ってくださっていると信じました。

でも、知ってください。

たとえ1回でもイエス様が「恐れるな」と言われたなら、私たちはその言葉を毎日1年中、一生の間、握って生きることができるのです。

どんな状況になっても、主を見上げ、主に頼り、主に期待してまいりましょう。

 

そして、今だからこそできることをさせていただきましょう。

bottom of page